#35.
記憶を失ったのははほんの数秒だったーーー。
いつもだったら幸せを感じていた星ちゃんの寝顔が、
その時は私を怯えさせた。
ーーーだってほんの一瞬でも、
どうしてお兄ちゃんの親友がここに寝てるの、と思ってしまったから。
すぐ我に返った私は両手で顔を覆いながら大粒の涙をこぼした。
ーーーそして確信したの、
私は何かの病気なんだって。
・
このままでは星ちゃんを忘れてしまうーーー・・・。
そんな気がしたーーー。
・・・日曜でも診療してくれる病院を探した。
最終的に見つけたのはちょっと遠いけど、
横浜にある脳専門の病院だった。
最初に症状が出たのは頭だったーー、
だからきっと頭に問題があると思ったの。
7時に起きて朝ごはんの支度を2人分、
彼の分を置いて置き手紙をして私は家を出た。
[ おはよう。ちょっと用が出来たので出て来ます、夜には帰ると思います。]
道中の電車の中でも、
携帯で自分の症状と重ね合わせながらも怖かった。
ーーー家族との記憶、
そして星ちゃんを好きになったことも好きになってもらえたことも全ての思い出が消えてしまうんじゃないかという恐怖だった。
病院に着いて初診の手続きをする。
問診票にいつからの症状で、どんな症状か、思い当たる原因も書いた。
ーーーおそらく私は大学や星ちゃんの社会人になることへの不安から出て来たものだと思ってる。
それが自分でもコントロールできなくなり、体に症状がで始めたのかな、と。
それも全て細かく書いた。
まずは血液検査から始まったーーー。
そして脳のCTとレントゲンのも撮ることになったけど未成年の私は保護者の同意が必要だった。
ーーーお父さんたちには連絡したくなくてお兄ちゃんに電話した。
「ーーーもしもし。どした?」
ーーー電話に出た瞬間から私が泣いてるからお兄ちゃんは驚いてた。
寝ていたのにきっとすぐに起きたんだろう。
「ーーー早くにごめんね。今、病院で・・・」
「ーーーうん。」
お兄ちゃんはどうして病院にいるのか、とかは聞いてこなかった。
ただ事情があるのは分かってるから話を聞き続けてくれた。
「CTとレントゲンの検査が必要で・・・」
「えっ、待て・・・。何の検査?」
「ーーーえっと・・・」
私が涙で話せないでいると看護師さんが横から電話機を取り代弁してくれた。
結論から言うとお兄ちゃんは動揺していたけど、
CTとレントゲン撮影の許可はもらえたから私は順番待ちで撮影することになった。
初めて着用する入院着ーーー。
パジャマみたいだけど気持ちが違う。
ーーー私は携帯を握りしめながら命に別状がないようにだけ祈った。
< 今から行く!>と言うお兄ちゃんからのメールも、
居場所確認のための星ちゃんからの電話もメールも出れずにただ携帯を握りしめながら祈った。
ーーーどうか家族と星ちゃんの記憶だけは残して欲しい、と。
私の検査は長かったーーー。
CTやレントゲン、脳波の検査などいろんな検査をした。
朝受診したはずの私は4時過ぎに解放された。
「ルナ!」
「お兄ちゃん・・・」
レントゲンが最後に終わり先生の診察待ち、
その待合室でお兄ちゃんは私の名前を叫んだ。
「ーーーお前は・・・」
何も言わずに私を抱きしめてくれた。
もう大丈夫、俺がついてるから、と何度も言って。
「ーーーCTの方を見ないと何とも言えないけど脳波には問題なし。」
「ーーー良かった。」
「ただレントゲンを見てもらいたい、これなんだか分かる?」
先生は深刻そうに私たち兄弟に聞いた。
「ーーー・・・腫瘍ですか?」
つかさずお兄ちゃんが頭を抱えながら答えた。
「おそらくこれが悪さして頭痛を起こしてる、それが麻痺して吐き気も。ーーー確認したいことがあるんだけど記憶障害はない?」
先生は私に聞いたーーー。
そして私は黙った・・・。
「ーーーあるんだな?」
お兄ちゃんは私に問いかけた。
私はコクンと頷いた。
「・・・大好きな人を・・・一瞬・・・忘れちゃって・・・」
私は涙を流しながら先生に言った、
お兄ちゃんも驚いていたけど私の手を握りしめた。
「見て分かるようにこの腫瘍が結構大きそうなんだ。ーーー手術で取り除きたいと思っています。」
「お願いします!」
お兄ちゃんはそう言ったーーー。
「ただ手術をしても、万が一もあります。頭部の手術は非常に難しいと言われております。腫瘍の場所によっては記憶障害が残ってしまう可能性もあります・・・。まずは2週間後の平日にCTと血液検査の結果を聞きに来てください。」
ーーーそうして予約をとり、私とお兄ちゃんは病院を後にした。
・
ーーー疲れた。
ただそれだけだーーー。
「良いか、処方された薬は忘れずに飲めよ。」
「ーーーうん。」
「星也はこのこと知ってるのか?」
「ーーー何も言ってない。あっ!何度も電話きてたんだ、電話しなきゃ・・・」
「今のお前、話せないだろ。ーーー俺がかけるよ。」
「ーーー言わないで。このこと言わないで。」
「ーーー分かってる。」
お兄ちゃんは星ちゃんに電話した、
私と一緒にいることも、
急に必要なものがあって私を呼び出したと嘘をついた。
「ーーー半信半疑ってところだったな(笑)いつか星也にバレるぞ。」
「・・・分かってる。」
お兄ちゃんは星ちゃんと住むアパートまで送り届けてくれた。
中に入れば良かったのに、
未来さんを1人置いて来ちゃってるからと帰った。
・
「ーーー飲む?」
少し距離感のある私と星ちゃん。
彼はちょうどコーヒーを飲むところだったらしくて、
私は紅茶を入れてもらった。
紅茶をすすりながら身に入りもしないテレビを見る私。
「ーーー本当はどこ行ってた?」
「えっ?」
「嘘なんだろ、太陽が話していたことは・・・」
真っ直ぐ私の方を向く星ちゃん。
「ごめん、今は言えない・・・。家族のことだから。でも時が来たら必ず話すから、その時まで待って欲しい。」
「そっか、分かったよーーー」
いつもだったらここで抱きしめてくれていた、
でも今日はそのまま星ちゃんはテレビに戻った。
そういえば・・・
今横に座ってても微妙な距離がある。
ーーー自分で巻いた種なのに笑える。
次の日も次の日もーーー・・・
普通に会話もするし同じベットに寝る、
でも前のように手が触れ合ったり頭を撫でてもらったりキスしたり・・・
そんなことはなくなってしまった。
私が星ちゃんを信じてるっていえば良かったのかな。
あの時・・・彼を傷つけてしまったから。
・
週末、星ちゃんは遠征だった。
ーーー正直ホッとした。
今日までの出来事を・・・
星ちゃんと出会ってからの楽しかったことも悲しかったことも全部ノートに書いてる。
忘れてもすぐに思い出せるように。
私はCTの検査で手術と決まったら、決めていることがある。
ーーー星ちゃんとの同棲を解消する。
いや、正確には星ちゃんを解放する。
先生は言ってた。
手術をしても頭痛は治ったとしても記憶障害が100%なくなるかは不明だと、残る場合もあると。
だったら手術をしてもしなくても同じなんじゃないかと。
あの時に言っていたことがもう一つある。
新しい記憶から飛んで、すぐに戻る。
星ちゃんと一緒に過ごして、
彼を忘れる瞬間が出てしまうことが怖いーーー。
思い出すとしても、その瞬間が怖いの。
・
2週間後の結果は脳腫瘍だった。
ーーーそしてそれが悪さしていることも判明した。
「ーーーすぐにでも手術をしたいところなんですが、ルナさんはどうお考えですか?」
あぁーーー・・・確定してしまった。
星ちゃんを解放だーーー。
「私は・・・頭にメスを入れるのが怖いです。それにどっちにしろ記憶が飛ぶなら手術はしたくありません。」
「ーーーそうですか。お兄さんと話し合いされましたか?」
「ーーーいいえ。」
「どちらにしても、手術するにしても最短で1ヶ月先なので次回の時までにきちんと話し合いをされて来てくださいね。」
ーーーお兄ちゃんは受けろっていうに決まってる。
どうすれば良いんだろう、今度はそっちに悩み出した。
そして日曜日、
金曜から遠征で前泊していた星ちゃんが帰宅した。
ーーーでも私は彼が帰宅した瞬間、
顔を認識出来なかった。
数秒のことだったけど、
誰か分からなくて怯えた顔をしたと思う。
ーーー私の顔を見た星ちゃんが悲しい顔をしていた。
「ーーー私を抱いて欲しい。」
私は星ちゃんにその夜、頼んだ。
「えっ・・・」
コーヒー飲んでいた彼は落としそうになってた。
「お願い・・・」
コーヒーカップを置いて彼は私に向き合って言った。
「ーーー出来ない。ルナが俺を信用してくれるまで抱かないって決めた。・・・時間を取り戻せたらって思うよ。そしたら感情に任せて、あの時も抱くことなかったのに・・・」
きっと星ちゃんと私が結ばれた日のことを言ってるんだよね。
ーーー星ちゃんは後悔しているんだね。
「じゃあ・・・抱きしめても良い?」
「ーーーどうぞ。」
星ちゃんはされるがままに私に抱きしめられた。
私の耳元に届く彼の心臓の音、
多分もう聞くことはないから焼き付けておくよ。
ーーーありがとう。
優しくしてくれて、
付き合ってくれてありがとう。
心の中で何度も呟いた。
ーーー私が涙を流しても星ちゃんは拭うことをしなかった。
これが私たちの答えなんだと思う。
私は彼が眠りについて、
夜も寝静まった頃、
最低限の荷物を持って家を出た。
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